パラリンピック元日本代表 今は国会議員の横沢たかのりさんに 工業高校出身でよかったことって ありますか?と聞いてみた!

卒業生に会いに行こう!スペシャル オンライン特別版

〈vol.11 秋号(2020年10月発行)より〉

「地獄のどん底でした…」事故で下半身まひとなったプロライダーの横沢たかのりさんは、当時のことをそう振り返ります。その後、チェアスキーと出会い、なんと!パラリンピック日本代表にまでのぼりつめます。そんな横沢さんは岩手県立盛岡工業高校の卒業生。高校時代に身につけた、あるものが卒業後の人生に役立ったのだとか。それはいったい!?

最後は人間の感覚が頼り。テストドライバーの仕事

ーー盛岡工業高校のご出身なんですね。

父が自動車整備工場を営んでいて、小さい頃から車やバイクに囲まれて育ちました。将来は家業を継ごうと思い、迷わず工業高校に。
高校時代の思い出は実習授業ですね。鉄を削ったり、締め付けトルクの加減だったり、コンマ1mmの感覚を肌で学びました。資格もガス溶接技能講習や危険物取扱者乙種4類など、いろいろとチャレンジしましたよ。

ーー卒業後の進路はどうやって決めたんですか?

プロのオートバイレーサーになることが夢だったんです。そこでバイクに関わる仕事をしながらプロを目指そうとスズキ株式会社に就職しました。1年目は製造ラインのメンテナンスなどを行う部署に配属となり、2年目からはテストライダーに。
どんなバイクも販売される前にはテスト走行をして、加速度や耐久性などを調べるんです。テストコースを走り終えると自分でバイクをバラして、部品を1つ1つチェックして、不具合があれば設計部門に報告する、そんな仕事をしていました。

ーーテストコースをただ走るだけではないんですね。

きちんと評価するには乗った本人が部品のチェックまで行わないとダメなんです。特に乗ったときのフィーリングは数値化できないため、最後は人間の感覚が頼り。データ上ではパワーが出ていても、実際は空回りしているとか、コンピュータの解析だけでは分からない部分があるんですよ。

全日本モトクロス選手権でかっちょいいジャンプを見せる横沢さん(1996年当時)
写真提供:横沢たかのり事務所

ジャンプの失敗で脊髄が…

ーーオートバイレーサーの夢はどうなったのでしょうか?

頑張るほどレースでケガをすることが多くなり、会社からは「レースなんてやめろ!」と怒られ、夢と現実の狭間で苦しみ…。これ以上、会社に迷惑をかけたくなかったので、スズキ株式会社は退職し、高校時代に取得した資格を活かしてバイクの部品などをつくる仕事をしながら、プロを目指すことに。そして、22歳のときに念願かなってプロの国際A級ライセンスを手に入れました。

ーーその後はモトクロスの大会で国内最高峰と呼ばれる「全日本モトクロス選手権」などで活躍されますね。

はい、日本中を転戦しました。ただ、25歳のときにレーサーを続けながらも、次世代を育成する夢も持つようになったんです。それで仲間と地元の岩手県に練習コースをつくりました。
さあ、これから若い才能を育てるぞ!と夢に胸をおどらせていたのですが、コースが完成した1997年11月24日、まさにその日、そのコースでジャンプの着地に失敗し、脊髄を損傷してしまいました。医者からは99.9%、車いす生活になると聞かされ、本当に地獄のどん底に落とされた気分でした。

マシンは雪質などに合わせて細かいセッティングをする。マシンの調整は自分で行うことも。そんなときにも高校時代に学んだことが役に立ったのだそう
写真提供:横沢たかのり事務所

「できないこと探し」と「できること探し」

ーー入院中はどんなことを考えていましたか?

ベッドの上で「できないこと探し」をしていました。歩けない。バイクに乗れない。幼い息子とやりたかった夢もできない。できないことをたくさん見つけると、生きててもしょうがねぇなぁなんて考え出して。でも、そんなときに病院で両手両足がない方と出会い、考え方が変わりました。
その方はたばこが大好きで、僕に「そのライターで火をつけてくれる?」と頼むんです。腕だけで上手に箱からたばこを取り出し、口にくわえるのですが、火だけはどうしてもつけられない。何気なしに火をつけてあげた瞬間、ガーンという衝撃が体を駆け巡りました。今までできないことばかりを並べていたけど、手があるじゃないか。火だってつけられるじゃないか。できることがあるんだと気づかされて、それから「できること探し」をするようになったんです。そんなときに出会ったのがチェアスキーでした。

ーー数ある障害者スポーツの中で、どうしてチェアスキーだったんですか?

マシンを操り、どの競技よりもスピードが出て、ターンもする。そんなところがバイクと似ているんですね。最初は入院先のリハビリの先生に勧められたことがきっかけでした。でも、そのときは興味が持てず、心の中で「絶対に乗るものか」と思っていました。なぜなら、障害者スポーツをやるということは、バイクに乗るのを諦めることでもありますから、その現実を受け入れられなかったんです。

ーー心境が変わったきっかけは?

退院した次の日、病院の先生から電話がきて、「仙台からチェアスキーをやる人が滑りに来るけど、見に来ない?」と誘われました。見るだけならいいかと教えられた場所へ行くと、「チェアスキーが1台余っていて、せっかくだから乗ってみなよ」と、強制的に乗せられて(笑)。

ーープロライダーだった横沢さんは、やはりすぐに滑れたのでしょうか?

いやいや、5m進んではパタンと転ぶ、その繰り返しでした。くそーと思っていると、仙台から来たおじさんが格好よく僕の横を滑って行くんです。「この野郎!」と心の中で叫んだとき、夢中になっている自分に気がつきました。転んでも転んでも「俺は世界一速いライダーになるんだ」というバイクに乗っていた頃の闘争心が湧き上がっていたんです。これだ、これだ!という感じでしたね。

2010年バンクーバーパラリンピックでの横沢さん。チェアスキーを利用した競技であるアルペンスキーの男子大回転に日本代表として出場!
写真提供:横沢たかのり事務所

夢はでっかくパラリンピック!

ーーその後、国内の大会で上位入賞するようになり、2010年にはバンクーバー・パラリンピックにアルペンスキー日本代表として出場されます。

どうせなら夢はでっかいほうがいいだろうとパラリンピックを目指しました。
人間って目標を持つと変われるんですよね。少し前まではすべてをネガティブに考えていたのに、夢を持つことは生きる力になるんだと感じました。

ーーパラリンピックの舞台はどうでしたか?

まさにスポーツの祭典。空港に降りたときからお祭りといいますか。
だけど、本番はシビア。選手たちは障害者であっても超一流のアスリートたちです。結果は残念ながらメダルには届きませんでした。でも、その日は大雨で最悪のコンディションだったんです。出場選手の半数以上が途中棄権、コースアウトする中で無我夢中で滑り、ゴールすることができました。

ーー工業高校生ならではのチェアスキー観戦の楽しみ方はありますか?

障害者スポーツはハンディを補うために道具を使う競技が多いんです。特にチェアスキーはマシンに乗ります。そのマシンは国ごとにいろいろな技術を投入して開発しています。例えば、日本だったらトヨタ自動車がフレーム開発をしていたり、F1のカーボン技術が投入されていたり。だから、各国のマシンを見比べてみると面白いと思います。
また、チェアスキーはマシンと人間が一体になって、はじめて勝てる世界。マシンが体の一部なんです。もちろんマシンには神経は通っていないけれど、エッジの圧などを体で感じ取ってパフォーマンスを発揮します。そういうマシンと人間の結びつきに注目すると面白いかもしれませんね。

最後はやっぱり…

ーーこれまで激動の人生を歩まれて来た横沢さんですが、工業高校を卒業してよかったと思うことはありましたか?

たくさんありますよ。テストライダーのときもプロライダーのときもチェアスキー選手のときも、コンマ数mm、コンマ何秒の世界での作業だったり勝負だったりしました。どの仕事も最後は感覚が頼りなんです。先ほど、実習で感覚を学んだと言いましたが、私にとってそれは生きていく上でとても大切なものでした。
それからモノづくりはトライ&エラーを繰り返すので探究心や諦めない心が育ちますよね。そういう精神的な部分も工業高校で身についたと思います。

ーー工業高校生やモノづくりが好きな子どもたちにメッセージをお願いします!

現役の工業高校生にはどんどん資格に挑戦して欲しいと思います。そして、実習などを通じて教科書では学べないテクニックや感覚もたくさん磨いて欲しいですね。
モノをつくるのって、人に喜ばれるんです。それはいずれ自分自身の生きる喜びにもつながります。工業高校はそうした生きる喜びを得るための基本的な技術が学べ、感覚やイメージする力が養える場所です。だから、工業高校の卒業生って、何をやらせても社会の中で生きていける。みんな力強く生きていますよね。僕の同級生を見ても、高校時代は不真面目に見えた奴も、今ではちゃんと世の中のために働いて活躍しています。モノづくりが好きな小学生や中学生は工業高校で学ぶことも選択肢に入れると将来の可能性が広がるんじゃないかと思います。

横沢 たかのり(よこさわたかのり)
岩手県立盛岡工業高校卒業。スズキ株式会社でテストライダーとして従事した後、プロライダーになるも事故で車いす生活に。その後、チェアスキーと出会い、2010年バンクーバーパラリンピックのアルペンスキー日本代表として出場(種目は大回転)。2019年参議院選挙で初当選(無所属)、現在は立憲民主党所属

文=阿部 伸/写真=小泉 真治
text ABE SHIN / photograph KOIZUMI SHINJI